なぜ未来を考えるのか。 -深刻化する問題から未来を透視する。-

Interview

なぜ未来を考えるのか。深刻化する問題から未来を透視する。

いま、未来を語るために、何を問う必要があるのだろうかーー。
その糸口を探るため、「未来デザイン・工学機構」の設立に深く関わった小野芳朗、水野大二郎にインタビューを行ってきた。語られたのは、今から50年以上前、日本が現在の地球環境問題、人口、観光、都市問題など深刻になり始めていたころに、新京都学派と後に名づけられた梅棹忠夫や小松左京らが構想した“過去の未来”を資産として引き継ぐことと、そして今、この時代に予測不能な社会に対峙するための「6つのCaveats(注意書き)」。
これらの問いかけをどのように実践することができるのか。今回、工学、建築学、言語学、デザイン学など本学所属の4人の研究者が会し、CPFが設立趣旨文として掲げた6つの注意事項をもとに、それぞれの専門領域にある課題と、その解決に向けてどのようなアクションが描けるのかをセッションした。

座談会参加者(五十音順、敬称略):
小野芳朗(本学 名誉教授)
木内俊克(本学 未来デザイン・工学機構 特任准教授)
深田 智(本学 基盤科学系 教授)
水野大二郎(本学 未来デザイン・工学機構 教授)
山川勝史(本学 機械工学系 教授)
山崎泰寛(本学 未来デザイン・工学機構 教授)

Introduction

水野大二郎
「未来デザイン・工学機構」という組織を立ち上げて運営をしていくにあたり、その創設者である小野先生とどういう趣旨で何をすべきかということを議論することから始めました。大学のために何かを考えたり、大学のなかで何か新しい総合知を生み出したりという話ではなく、今の社会に対して我々の大学がどういう位置付けで在るべきなのかを考えることから問い直し、この「6つのCaveats(注意書き)」を掲げました。

表現を検討するにあたって色々と議論もありました。今この場にはいらっしゃいませんけども、副機構長である山下兼一先生からもアドバイスを受けました。
この6つの注意事項、つまり機構の設立趣旨めいたものを作ってから約1年ぐらい経っているわけですので、これを自分なりに解釈したのが、いま本機構のWebサイト上に載っています。

本学が社会にアプローチする際のキーワードを網羅的に出して、これらを意識しながら、この「未来デザイン・工学機構」のこれからの活動を支えるテキストとしていけたらいいかなと考えています。

小野芳朗
今回の座談会を開催するにあたって、ご参加いただいた先生方に、梅棹忠夫さん(国立民族学博物館創始者)の『梅棹忠夫の「人類の未来」 暗黒のかなたの光明』という本を読んできてもらうことにしました。というのも「未来デザイン・工学機構」は、梅棹ら新京都学派が構想した“当時の未来”というものの礎の上に、どのように次の未来を乗っけることができるか、というところを考えたいと思っています。

座談会の事前テキストとして配布された『梅棹忠夫の「人類の未来」 暗黒のかなたの光明』(勉誠出版)。『人類の未来』は、河出書房から1970年に出版されるはずだったが、未完の書となった。本書は残された当時の資料や対談記録をもとに、梅棹が想定していた「人類の未来」を読み解こうとする。

彼らがその構想を描いた60年代は、第二次世界大戦復興後の工業化社会による結果として環境問題が激化したころです。70年代に入ると、その反動を受けるように象徴的な出来事が続きます。1970年11月の第64回国会は「公害国会」と呼ばれ、水質汚濁防止法案や大気汚染防止法など合わせて14の法案が可決されました。これと連動するように行われたのが「人間環境会議」。人間環境の保全と向上に関して問い直すとともに、この時に顕在化したのが先進国と発展途上国との格差です。これが1972年。同じ年の5月に、ローマクラブが出した『成長の限界』(日本語版発行:ダイヤモンド社)という本があります。大来佐武郎の監訳によって非常に早い段階で日本でも流通しました。

また、梅棹らと共に「未来学研究会(貝喰う会)」を立ち上げた小松左京は「ユートピア像デザイン論」という論稿のなかで、炭酸ガスの増加による地球温暖化や車の排気ガスから出る鉛がグリーンランドの氷の中から検出されていたことを記しています。1970年代初頭に、現在の状況が予測されるようなものが出てきていたわけです。

「暗黒のかなたの光明」という副題がついているように、梅棹が1969年に立てた目次には、住宅問題にはじまり、人口爆発、遺伝子工学、最後は教育の問題、宗教の終焉まで挙げています。70年の大阪万博の際に、梅棹自身が語っていますが、「人類の未来」というテーマに対して薔薇色の未来を考えるのではなく、未来に対する不安を語る会だと。未来の課題をどう解決するかを考えるのが、未来学研究会だと言っています。

現在、かつての万博で描かれた未来技術はほとんど実現しています。一方で、1969年に梅棹が警鐘を鳴らした数々の「暗黒」は、2023年の現在、ほぼ深刻化しているという状況です。
今回、本学の専門分野の異なる教員が集まり、「6つのCaveats」と「人類の未来」このふたつの“注意”を下地に議論することの意味は、まさにこの一点にあると思います。同じ轍を踏まぬよう、私たちはこれからどうするのかということです。

未来デザイン工学・機構の設立の背景には「京都大学人文科学研究所」が実践した学問スタイルが礎になっている。

Ice breaker

水野大二郎・小野芳朗の二人をモデレーターに、工学、建築学、言語学、デザイン学など専門性の異なる本学研究者が一堂に会した。アイスブレイクがてら、いまの研究に至るまでの原体験を聞いてみた。先生たち、何を見てきたんですか?

水野大二郎(デザイン)

幼少期に興味をもったのは、大きくてピンク色でほぼ何にでもなれるバーバパパです。小学生になると星新一の著作をひたすら読んでいました。大学進学を機に渡英し、約7年ほどを過ごしたRCAは、小規模であるがゆえに、ほぼ全ジャンルの人たちと意見を交わし、あらゆる制作現場を見たり使ったりすることができました。世界中の研究者の講演を聞いて、直接話をすることもできた。そういった経験が今日の横断的な課題を認識しやすくしてくれたと思っています。

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小野芳朗(環境工学)

少年時代は、星新一の『ボッコちゃん』をきっかけにSF小説にのめり込んでいました。1969年にアポロ11号の月面着陸をテレビで見て、「まだ月か、これじゃ自分が生きてる間に火星までいけないじゃないか」と思ったことをよく覚えています。京都大学で環境工学を学び、京大人文研と民博で共同研究会に参加しました。まるでパラレルワールドのように、さまざまな領域を渡り歩いてきましたが、この大学ではデザインに足を踏み入れ、デザインも「未来学」の一端であることに気がついたんです。

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木内俊克(建築・デザイン)

建築に限定されない思考のあり方を知ったという意味で影響を受けたのが、早稲田大学の石山修武さんでした。東京大学に通うかたわら幸運にも石山さんの事務所で働かせていただく機会が得られ、大学の授業の傍らで設計に勤しむ日々を過ごしていました。彼は建築をより経済的かつ合理的に、そして何よりも自由につくりたいのであれば、設計者も施主も、建築の設計から発注や施工まで含むあらゆる工程に関わった方がいいと主張していたんです。物事を突き詰めて考えていくと、既存の仕組みを疑わない限り、本質的に狙っていることは達成できないという思考を植え付けられました。

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深田智(言語学)

中学の頃、母に怒られたことがありました。弟が同じことをしても怒らなかったので、母に抗議したら「区別です」と言われました。同じ出来事が異なる言葉で表現されるという経験、それが「ことば」に興味をもった原体験です。加えて、小説のなかに入り込むと自分の感情が動くということに対する疑問もありました。大学に入ると、当時の先生から「言語を学べば文学も面白くなる。英語への理解が進んだ時に日本語の見方が変わる」と言われ、言語学の道に進むことになりました。

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山川勝史(流体力学)

生まれてからずっと京都にいて、大学はこの京都工芸繊維大学を卒業しました。東レという会社に6年弱勤務していたので、数年離れていたんですが、人生の9割ほどを京都で過ごしています。今の研究分野である流体工学に至るきっかけは、とにかく速い車が好きだったこと。大学の時にモータースポーツのF1にはまって、フォーミュラカーの強さが数値解析や計算流体によって決まってくるという衝撃からこの世界に入りました。

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山崎泰寛(建築メディア論)

大学では教育社会学の社会学言語研究室にいたんですが、大学院に進んでからデザインと建築へと関心がシフトチェンジしていきました。大学卒業後は5年ほど、編集の仕事をしていたので、自分が何を研究していくのかと考えた時は、出版やメディアの研究だと思っていたんです。でもある時、展覧会を構成するマテリアル自体がすべてメディアであることに面白さを覚え、「展覧会はメディアの総合芸術だ」と腑に落ちたことが今の研究に結びついていると思います。

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