未来のために、”過去の未来”を問う理由 -未来デザイン・工学機構が掲げる”6つの注意事項”とは?-

Interview

未来のために、”過去の未来”を問う理由未来デザイン・工学機構が掲げる”6つの注意事項”とは?

京都工芸繊維大学が新たに立ち上げた「未来デザイン・工学機構、Center for the Possible Futures(以下、CPF)」。その立ち上げに深く関わった副機構長の水野大二郎は、設立趣旨に掲げた6つの理念らしきものに、あえて名づけるとすれば「Caveats=注意事項」だという。昨今の加熱する未来論に対して警告を発するかのような言葉を選んだ、その意図とは? 環境容量、メガストラクチャー、小松左京、台湾ラーメンアメリカン、社会的連帯経済、人新世まで縦横無尽に語りながら、未来への可能性を「過去の未来」と「断絶」というキーワードを通じて解説する。

CPFの設立にあたって掲げられた6つのCaveats
1. 人間中心的世界観の限界のみならず、環境容量の限界を理解し、地球とそこに生存するあらゆる生物との共生のための利他的視点をもちつつ、
2. 微視的、マイクロ・ナノスケールの課題から巨視的、メガ・ギガスケールの課題まで空間的理解をなし、
3. 過去、現在を通して未来へとつなぐ時間的視点をもち、
4. 定量的で再現可能なデータと、定性的で再現不能なシナリオ双方を対象に、
5. 各学術領域におけるディシプリンの文化、性差や世代、人種・国籍などの差異を認識し、それらを超越して多様性を受け入れつつ、積極的な共創の体制を確立した上で、
6. 境界無き直線的、工業的成長から、限界を認識した循環的、文化的発展へと移行をとげる

Profile

  1. 水野 大二郎の顔写真

    未来デザイン・工学機構教授

    水野 大二郎

「6つのCaveats」の背景にあるもの

ーCPFに限らず、あらゆる大学の機関が発する理念めいたものは、選び抜いた言葉によって先鋭化したものだと思いますが、どうしても総花的で意図が理解しづらいです。今回は、設立趣旨に掲げた「6つの項目」を順に追って、その背景にある課題や考えを読み解きたいと考えています。

1.人間中心的世界観の限界のみならず、環境容量の限界を理解し、地球とそこに生存するあらゆる生物との共生のための利他的視点をもちつつ、

この話は、いわゆるマルチスピーシーズやサステナビリティといったキーワードに解釈されるものです。最近ではマルチスピーシーズ人類学が盛り上がりをみせていますが、デザインや建築などの工業製品をつくる業界では、そこまで考えは至っていないのが現実です。ヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)などに代表される領域においては、人間中心設計という考え方がこの数十年間支配的な立場をとっていましたが、その反省が2010年代からかなり強くなってきました。複雑化する社会技術的問題は必ずしも人間-コンピュータ間だけのものではなく、周辺環境にある/いる非人間と人間との相互作用の結果によるところが大きい。つまり、人間と様々な非人間を含む相互依存的領域へと拡張していく必要があるのではないかということです。そうすることで、人間のニーズだけを満たすのではなく、非人間のニーズを満たすことで間接的に人間のニーズが満たされることもありえるのではないか。人間中心設計の次の展望として、人間のために非人間が頑張れるように人間がどう行動するか、という“ねじれ”が出てきたわけです。このような展望については、かつて人間中心設計を牽引した認知心理科学研究者、ドン・ノーマンによる近年の論文や書籍『Design for the Better World』にも示されています。

ー人間中心への反省とともに、「環境容量」というキーワードが盛り込まれています。

人間中心的世界観の転換という話の一方、環境工学からみれば、世界の中心にあるのは人間ではなく地球の「環境容量」であるとも言えます。自然の浄化能力の限界量​​、つまり二酸化炭素濃度など人間が住むために適した地球の状態には限界があり、その限界値を超えると他の生命が繁栄するかもしれないけれども、人間は繁栄できないというパターンも当然あり得る。このような地球に住めなくなるという話は、1972年に発表されたローマクラブの報告書「成長の限界」から、広く議論されてきました。

我々は今の生活を続けることができない、という課題は喉元に突きつけてくるものがありますが、大量生産・大量消費・大量廃棄をやめよう、といったシンプルな考えは言うは易し、行うは難しです。しかし、「環境容量の限界に対し、どのような新しい生き方がありうるのか?」という問いは切迫しつつあります。であるがゆえに、消費財に対するラディカルな価値の変化を起こしうると考えています。

2.微視的、マイクロ・ナノスケールの課題から巨視的、メガ・ギガスケールの課題まで空間的理解をなし、

1960年に開催された世界デザイン会議で「メタボリズム」を提唱した中心人物の一人である丹下健三は、人間の認知に関わるミクロなスケールから都市のようなマクロなスケールまでを対象に、1963年ごろから自身の研究室で山田学、月尾嘉男らを中心にコンピュータを用いて都市デザインを行いました。いまでいう、コンピュテーショナル・デザインの原型に当たることにトライしていたわけです。DNAから大気、宇宙までを地続きに捉える曼荼羅的世界観が当時の都市工学にあった、ということかなと思います。

ーCPFでも電子工学系の微視的な研究から社会そのもののデザインに関わる巨視的な研究まで幅広い分野の専門家が携わっています。これらを切り分けずに研究することで、どのような社会の様相を捉えることができるのですか?

ミクロ、マイクロ、ナノなど、時間・空間の単位で切って、その中だけで研究をする、あるいは世界を認識することに問題があるのではないかと感じています。たとえば、『The Stack』の著者である技術哲学者のベンジャミン・ブラットンは情報技術の進化によって生まれた、地球規模で多様なスケールを接続させた「偶発的なメガストラクチャー」が、国家の代わりに我々の世界を統治しているのではないか、という指摘で知られています。

例えば巨大IT企業によるデータセンターが、田舎に大規模に、かつ秘密裏に、歴史や文化を無視してある土地に出現するわけです。何十万ラックも物理的にサーバをいれるわけですから、データセンターはいわば徹底的に合理性を追求した結果生み出された産物なわけです。データセンターに限らず物流倉庫などの巨大建築の多くは、非人間である機械のためにデザインされた空間です。これら非人間を含むユーザーから、インターフェース、都市、クラウド、地球までが地続きで積み重なっている、ということを彼は言わんとしています。

このように近年、コンピュテーションに規定されたあらゆる事象が、ランドスケープの新しい概念を生み出して久しいと思います。この地続き感をうまく捉え直す試みはとても大切なことだと感じています。

3.過去、現在を通して未来へとつなぐ時間的視点をもち、

これは、現在から右肩上がりで連続する未来を過去から位置付けましょう、ということではなく、過去をうまく使ってゴールとしての未来を位置付け直しましょう、ということです。

ー現在、加熱している「未来論」に対する、アンチテーゼにも聞こえます。

「未来」の流行は、日本では1960年代に加熱しました。ヨーロッパが第二次世界大戦の痛みから抜け出し、ソ連やアメリカが科学技術の発展で競争を繰り広げていた当時、「明るい未来」がそこにはあったんです。だから世界各地で未来に関する会議が行われ、1970年の4月10日から16日にかけて、ここ京都の国際会議場(現・国立京都国際会館)に未来学者などを集め、「未来からの挑戦」というテーマで国際未来学会議が開催されました。これら先駆者の議論を改めて振り返ることは、非常に重要だと思います。ようするに、「フォーキャスト」や「バックキャスト」をする以前に、過去に未来は日本でどう考えられきたか、を捉え直す必要があるということです。

ー過去に未来を考えてきた人たちは、何を考えて未来としていたのか、ということですね。

例えば、芸術の文脈において未来のことを考えた運動や事例にはイタリア・未来派や、ドイツ・バウハウス、ロシア構成主義などがあり、おおむね1910から20年代にかけて一気に花咲きました。そういった運動から『メトロポリス』のような映画、それに触発された手塚治虫の作品、さらにそれに触発され『AKIRA』や『攻殻機動隊』、、、といったように作品が続々と出てきたわけですよね。同様にSF文学も盛り上がり、日本では小松左京や星新一、筒井康隆、井上ひさしなどを経て、伊藤計劃や津久井五月のような作家が注目されるに至ったわけです。

そして、一部のHCIやコンピュータ・グラフィックス研究者には「マイノリティ・リポート」のようなSF映画からインターフェースのデザインを学ぼうとする人たちも現れ、『SF映画で学ぶインタフェースデザイン​​』と題した書籍も刊行されました。また、映画「インターステラー」ではノーベル賞受賞者の理論物理学者キップ・ソーンとコラボし、映画内におけるブラックホールの精緻なビジュアリゼーションに関する論文「Gravitational lensing by spinning black holes in astrophysics, and in the movie Interstellar」が映画公開後に学術誌掲載されたりもしました。

このように過去から現在を通して未来まで繋げるということがこれまで行われてきたわけですが、近年は人類学の分野でも未来が考えられているようです。人類学者は過去を踏まえて現在を読み解き、人間観を形成する重要な仕事に従事していますが、近年では未来思索的な研究にも携わる方がいます。人類の営みのなかで未来という存在がどうあったのかを技術決定論的に解釈するだけではなく、人類学として位置付けようとしていることは面白い取り組みとして着目すべきでしょう。たとえば、『Anthropologies and Futures: Researching Emerging and Uncertain Worlds』という人類学の論文集では科学技術や地球環境の変化、地政学的な問題、グローバルな経済的・政治的動向など、様々な視点から未来を考えることで、現在の社会的・文化的・政治的な問題に関する深い理解をもたらすとしています。

4.定量的で再現可能なデータと、定性的で再現不能なシナリオ双方を対象に、

先ほど挙げた国際未来学会議の開催からもわかるように、1960年頃から、不確実な未来をどう予測するか、という話が出てきました。代表的なものにはビジネスで使われるようなリスク分析などの規範的なものがあり、「こういう可能性やリスクがあるから、こういうことを事前に準備しておいた方がいい」といった趣旨の分析手法が挙げられるかと思います。こうしてビジネス・マネジメントの界隈ではさまざまな定量的アプローチができた一方、SFプロトタイピング法のような定性的なアプローチも近年確立してきました。

これらの定量的なデータドリブンな話と、定性的なシナリオドリブンな話を組み合わせる必要があるよね、というのがこの4つ目の話です。エビデンスをベースにしながら創造的なシナリオをワークショップとして運営するなど、多くの人が納得・共感できるビジョンの共創は近年様々な場所で見かけるようになりました。特定の有識者や意思決定者に依存せずに、もっとみんなで社会の次なる在り様を考えるための方法も使えないかと思っています。

5.各学術領域におけるディシプリンの文化、性差や世代、人種・国籍などの差異を認識し、それらを超越して多様性を受け入れつつ、積極的な共創の体制を確立した上で、

これは、デザインやHCI関連の世界では比較的早くから懸念されていました。1970年代から、コンピュータが人間生活に大きなインパクトを与えるということがわかってきた。とくに労働環境においてはコンピュータが暴走したり、労働者の仕事が奪われたりする可能性がある、ということで、パロアルト研究所にいた研究者らを中心に1983年、NPO団体として「社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会」ができました(2013年解散)。

やがてその会は、「参加型デザイン学会(Participatory Design Conference)」といわれる学術的活動に発展していきました。コンピュータサイエンスの専門家だけだと「技術を修正し続ければ問題は解決できる」と考えがちですので、「そもそもどこを修正すればよいのか」を考えるために、ユーザーをはじめとした利害関係者を巻き込んでいく流れが生まれました。より民主主義的合意形成を重視する北欧型と比較し、アメリカ型といえる「コンピュータの社会的責任を考える」ところから、みんなでデザインを考える契機が生まれたともいえるでしょう。

市民参加を謳う都市計画の現場はもちろん、医療・福祉・教育の現場など、あらゆる状況において専門家だけに依存してはいけない。デザインを下支えするコラボレーションや共創による問題解決や新たな価値創造については、リズ・サンダースとピーター・ヤン・スタッパーズが発表した論文「From designing to co-designing to collective dreaming: three slices in time」において示しています。本論では、社会的に弱い立場にいる人とともにデザインをする、という2014年の話は、2044年には当事者自身がデザインすることを目指すのではないか、というパラダイムシフトが提案されました。論文が発表された頃は「わかってはいるけれど、30年後の話でしょ」みたいな話だったかと思いますが、現在ではWeb3.0のような自律・分散・協調型システムの登場によって、本当にデザインがそっちの方に向かっていこうとしているのではないか、と見ています。

ー多様性を担保するにはコストがかかるという議論もあります。現実的に、どのような参加型デザインが可能なのでしょうか?

例えば、新しい民泊プラットフォームとして登場したFairbnbのような、社会的連帯経済と言われる話がすでにあると思います。都市が観光業に搾取され、収益がプラットフォーマーに一極集中し、都市の空き家が投機対象になり、地域の風土や文化、労働者がないがしろにされるということではなく、地域にも利益が分配されたり還元されるようにすることで、本質的な持続可能性を担保することができるのではないか、ということです。社会的連帯経済という考えは、これまでの株主への収益分配などとは異なり、Web3.0的な世界観や地域コミュニティへの貢献を前提としてアソシエーションがなされるようになってきたと考えています。

従来のような「弱い立場のあなたをなんとかします」という主従関係がある話ではなく、多様性をそのまま、対等性を尊重したまま受け入れ、新しい社会をつくるために生かせないかを考えるのが非常に重要なポイントになってくるんじゃないかな、と思います。

6.境界無き直線的、工業的成長から、限界を認識した循環的、文化的発展へと移行をとげる

6に関しては、サーキュラーエコノミーの話がまず大前提としてはあろうかと思いますが、これと紐づくこととして、まずひとつに、日本では哲学・環境人文学​​者の篠原雅武さんに代表される「人新世」の話が切り離せなくなっていくでしょう。キラキラした部分だけが循環しているということはもうあり得なくて、近代的な生活世界では外部化された下水から排出されたものや廃墟になったもの、放擲されたものも含めて循環する世界をつくらなけらばならなくなった。これがサーキュラーエコノミーと人新世的世界観の接点になると考えています。

もうひとつは、開発人類学者のアルトゥーロ・エスコバルをはじめとした、「プルーリバース(多元世界)」の話です。彼らは、グローバル・サウスにおける「開発」という名のもと推進されてきた「近代のデザインプロジェクト」が、西洋近代の普遍主義に基づいて単一の世界を構築しようとしてきたことに対し、文化の多様性を再生する多元世界の構築を目指しています。ジャングルがプランテーション化していくことで、「成長と発展」は見込まれるかもしれないけれども、地域に根ざした暮らし方を破滅させることになるわけです。進歩主義的、グローバル・ノース型、家父長制資本主義的な世界観から撤退して、グローバル・サウスにあったような、その土地にあった循環的な暮らし方や自然との調和的な暮らし方に対する考えの回復も重要になるかもしれないです。

ー日本もまた、欧米先進国をモデルに「追いつけ追い越せ」型の成長を求めてきました。

日本でも昨今、「自然」への回帰を良しとする傾向があります。ですが、花粉の大量飛散に明らかなように、「自然」とされる山に植えられた木々は戦後の拡大造林政策によって人間が選んで植えた針葉樹であり、山は自然にみえてサイボーグのような存在でもあるんじゃないかと思うんです。

つまり、日本にグローバル・サウスにおけるプルーリバースをそのまま引き入れることは難しいんじゃないか。日本はそれなりに発展してしまっていて、自然とされるものはもはや自然ではありません。だから、日本ならではの直線的・工業的成長から循環的・文化的発展への移行を考える必要があるのだろうと思います。ヨーロッパのサーキュラーエコノミーの受け売りでもなく、アメリカのエコロジー思想の受け売りでもない、第三の方向を考えてみたいところです。日本なりのエコロジカルな世界観を作り出すことが重要ではないかと感じています。

「6つのCaveats」を振り返って

ーいま日本の大学や企業では「未来」を冠するセンターがたくさん生まれています。改めて、CPFが目指す「未来」とはなんでしょうか?

すでに検討されてきた未来を過去100年というスケールで顧みて、もう一度、未来に対する世界観自体を再定位したいと思います。未来が間違っていた可能性を理解し、異なる未来を考え直した方がいいとすると、「先人はどう未来を考え、反省していたのか」をベースにしたいわけです。

ここ京都では、大阪万博の構想期に「新京都学派」と称される先人が「万国博を考える会」を経て「未来学研究会(貝喰う会)」を立ち上げています。彼らが60年代に描いた構想がどういうものだったのか、その構想が形になった70年代にいかに変容したかということも歴史的にわかっていることです。そうであるならば、同じ轍を踏むのではなく、彼らの築いた資産の上に、どのように次の未来を乗っけることができるか、というところを考えるのはとても大切だと思います。

ー具体的には、どのような資産を重視していますか?

新京都学派の中心を担った梅棹忠夫は情報産業の到来について予言していましたが、その影響を大きく受けたのが日本未来学会だと思います。その考えは現在会長を務める情報社会学者の公文俊平さんに継承され、農耕、軍事、工業化の次に、情報化がくることを正確に見据えていたと思うんです。現在の我々の置かれている状況が、工業化を前提とした社会の発展から情報化を前提に発展する社会である、という認識を資産として引き継ぐのは大前提です。

また、過去の未来学から引き継がなければならないと思うのは、明るい未来の話のみならず暗い未来の話です。科学技術の進歩がもたらすユートピアの話と、公害の話や終末論的な未来といったディストピアの話は表裏一体です。1970年頃の公害問題は、今やグローバルで根深いエコロジカルな危機にまで発展しています。酷暑や災害激甚化、それに関連した水産物や農作物の価格高騰などのような話が、「あついね」、「よくふるね」、「たかいね」といった程度にしか多くの人に受け止められていない麻痺した状況にあって、世界観的転回としての人新世を外すわけにはいかないと思います。

だから、情報化社会におけるデジタル・ファブリケーション、Web3.0、メタバース、 AIなどを前提とする一方で、人新世における諸問題もしっかり前提といく必要があるのではないかと思います。インターネット上に存在する智民によってもたらされるはずだった知性も、フェイクニュースや深層学習における倫理問題などで混乱をきたしています。日本の先人たちは、こうした状況を予見するような形で「未来学」を築き上げ、議論し、専門分化の道を辿りましたが、視点は十分に示されていると思うんです。

ーその予言や視点が、次の未来を考える上でのアクションになると?

梅棹忠夫や小松左京は、単に構想だけを描いたのではなく、応用未来学としてのデザイン学についても言及しています。『梅棹忠夫の「人類の未来」』によると、彼らは描かれた世界観や宇宙観をどのように具現化するかという「How」の部分を考えていた。まず未来学をつくり、未来がどうなっているのかを構想し、それを実現するための工学を中心と捉えていた。一方、小松左京は、そういった基礎がある程度できたら、次に乗っかるものはどうやってつくるのか、そこにデザイン学が入ってくるのではないか、ということをイメージしたわけです。

人間が生存する前提としての地球自体が大きく変わってしまった2023年現在、何をしたらいいのか、どのように人間は生存するのが望ましいのか、どのような研究の組み合わせから未来をつくりだすことがいいのか、という点を再度検討する必然性があると思います。だから、これからの未来に必要なもの、生み出すもの、提案することにあたっては、小松左京たちが整理しイメージしていた応用未来学としてのデザイン学は、人間の新しい生存様式のために何ができるのか、と問うこともできるかなと思います。

ー機構の名称に話を戻すと、「未来」の次に「デザイン・工学」と掲げています。未来そのものを構想するのではなく、具体的なモノやサービスをつくることになるのでしょうか?

ChatGPTと対話的にアイデアを出すことも、自然と調和的に暮らすことも、一部の人にとってもはや当たり前となった「未来の兆し」ともいえる生活様式です。しかし、これを起点として新しい人間の存在の様式を構想し研究や実装を行うと、「今・ここ」を生きる多くの人の価値観と大きなズレが起きるんですよね。これに対してみんな訝しい、怖いといった不安を抱くと同時に、新たな欲望も巻き起こる。それが多分重要なんだと思うんです。

世界観移行を示唆する不安と欲望を駆り立てるデザインこそ、持続可能な人間の生存様式を生み出すように思います。これまでになかった全く新しい人工物が社会に登場する時に、揉めるのはよくあることです。でも、それが今までの直線的な未来像ではない未来像をつくり出すし、そこに適合する新しい人工物をつくった時にこそ健全な議論が起きるのだと思います。具体的なモノやサービスを形作る価値は、議論を誘発する点にこそあるでしょう。

ーCPFは教員の専門領域の「間(ま)」に着目すると謳っています。領域横断と一括りにすると平易に聞こえますが、研究者にどのような態度が必要と考えての決断でしょうか?

デジタル化に伴う人間の生活世界の拡張や、人新世や循環系の問題といった研究領域は多くの場合、バラバラに研究されていると思うんです。デジタルは情報技術の話、人新世は環境哲学の話、といった具合です。

他方、新京都学派の一員であった林屋辰三郎らが著した『日本人の知恵』という本があるんですが、日本文化にまつわるものをあらゆる視点から論じています。例えば「あんパン」。外来のパンと、日本固有のあんこを合わせた和洋折衷の食べ物として、明治7年に銀座の木村屋の木村安兵衛が作ったのが元祖だそうです。そこから明治以降の日本の食べ物が明治以前の食文化と比べてどうだったのかということを、あんパンといったフィルターを通して読み解いていくんです。そうやって「アドバルーン」「豆自動車」「クリスマス」など、日本の暮らしに現れている個々の事物のなかから日本に適した価値体系を探究し、語るわけです。

タコツボ化してしまうと、「あんパンのようなもの」を総合的に語るような視点がもちづらいんですよ。人文・社会科学の話と自然科学の話を切り分けずに、現代におけるあんパンのようなものを見つめることが本来なければいけないと思うんです。

ー国外からの受け売りではない、日本らしい第三の方向性が見えてきそうです。現代における「あんパン」ってどんなものでしょうか?

あんパンの延長線上にある食べ物だと、例えば日本には「台湾ラーメンアメリカン」がありますね。台湾人出身の方が日本人向けにアレンジした台湾ラーメン。その味が濃過ぎるということで、薄味=アメリカンがあるわけです。

ーあんパンの時代に比べると、すごく複雑ですね。いまは「台湾ラーメンイタリアン」や、派生系のチップスもあるようです。

これは単純なグローバリゼーションやガラパゴス化、大衆文化という話ではなく、アメリカンコーヒーがそもそも浅煎り=薄味のコーヒーと進化した日本の喫茶店文化の文脈を背負っているなど、過去から引き継がれたさまざまなミームの積み重ねであるという点は面白いと思います。

これからの活動領域は、いろんな要素の「おかさね」になると思うんです。情報技術と不可分となった持続可能な生活様式や世界観が、複雑な文脈を持ち合わせた得体の知れない「おかさね」として、どんどん出てくると思います。これらは、繰り返しになりますが、今までの我々の価値基準にそぐわない恐怖や不安にさせる議論を誘発するものでもあると同時に、新たな欲望を生み出すものにもなるでしょう。

ーインターネットが爆発的にもたらしたミームだけでも、すでに文脈を追うことができないほど複雑になっています。

その複雑さによって、「見なかったことにしていたもの」が表出せざるを得ない状況になってきたと思います。あるいは、異分野融合によって示される世界観に基づくものが、特定領域の中だけで活動してきた研究者や実務者から「なんだこれは」と混乱を招いたり、否定される事態も起きるのではないかと思います。

これまでの「良し」とされてきた基準がわかりやすかった世界が大きく揺らいでいます。過去の話や外部化されてきた話も含めて、考慮すべき事象が加速度的に大きく広がっている。その中で、新しい存在意義や生存様式を考える必要があるのではないかと思います。

ーその不安定な状況のなかで、「Caveats(=注意事項)」が必要なんですか? 「警告」とも訳せると思うのですが、どういった意図があるのでしょう?

「Caveats」以外にも「視点(Perspective)」とか「原則(Principle)」とかもあり得るかと思いますが、不確実性が高まったご時世に、固定した視点や原則、教科書的なルールを持ってもなあ、、、と思います。今までいたところが不安定になったり、もろく感じて怖いみたいな、その前提から始めることを前提としたいんです。なので、ちょっと聞き慣れないかもですが、あえて「Caveats」を掲げてみました。

ーなるほど。水野先生らしい実直な言葉ですね。今日はありがとうございました。

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